3兄弟VSおかん道 修行日記

こどもの心が元気に育ちますように。子育て下手の私でもできた「親業」を取り入れたプライベート育児日記・不定期更新中

2013年11月

今日は奈良少年刑務所で更生教育の講師をされている
寮美千子さんの講演会に行ってきました。

少年たちの書いた詩の中に、とても印象的なものかありました。

「いつも いつでも やさしくて」

ぼくが泣いて帰ってきたときも
怪我をして帰ってきたときも

いつも いつでも やさしくて

ぼくがはじめてウルセーって言ったときも
初めて学校で問題を起こしたときも

いつも いつでも やさしくて

ぼくが落ち込んでいるときも
反抗したときも

いつも いつでも やさしくて

そんなやさしい母さんだから
ぼくもやさしくしようっていう気持ちになる

でも ぼくのなかには「俺」がいて
そんな「俺」は時々
なにかに当たり散らして
ブツかって生きたかったんだ
でも

あなたは いつも いつでも やさしくて

だから本気で ブツかれなくて
だから本気で わがまま言えなくて
だから本気で さびしくで

やさしさで包んでくれる母の愛

ぼくはしあわせだけど
その「愛」が「やさしさ」が
ぼくのなかの「俺」を不自由にする

「俺」を母さんのまえで自由にして
本気で手足をバタバタさせたい
いつも いつでも

でも 少しも母さんに迷惑かけたくないんだ
そう そのやさしさの前では

いつも いつでも やさしくて
 (「空が青いから白を選んだのです 奈良少年刑務所詩集」:寮美千子編 新潮文庫より)

やさしさが真綿のように人のこころを締め付けることがあります・・・と寮さんのコメントが入ります。
少年の、母親を苦しめたくない気持ちと、本当の自分を愛して欲しい、認めて欲しいと叫んでいる気持ちが葛藤しているさまが、とても苦しくなります。

少年は、母親にもっと爆発して欲しかったがために、
本当の自分を見せないことに苛立ちながら問題行動を起こしたのかなと、つい考えてしまいます。
淋しくて、淋しくて、最後まで行ってしまった。

愛情がホンモノかどうか試してみたくなる・・・愛情に確信が持てない人はよくやります。
わたしも経験があります。

昨日は親業一般講座の第7回目。
ゴーゾンメゾットの醍醐味である、「第三法」と言われる手法を使って、2人の間に起こった”対立”を解決していくプロセスを実際に体験する。

ここでの一番のポイントは、自分の中に”譲れないもの=欲求”を確認することなんだ。
何を大切にしたいか?
何を望んでいるか?

子どもと親に対立が起こるのは、お互いの”譲れないもの=欲求”を守るために必死になるから。
何とかして守ろうとして、あれこれ、いっぱい考える。

そうなのだ。子どもにとって親は”自分の大切なもの”を奪いにかかる、敵になるんだ。
大切なものを奪われそうになると、誰でも必死で守りたくなるもの。
親だって、子どもに”自分の大切なものを”いっぱい奪われているかもしれない。
だから、争ってしまう。

相手にとって”本当に大切なもの”は奪わない。そこは絶対に尊重する。
その大原則があると、話は変わってくる。
奪われないのなら、必死で守らなくてもいい。

本音で話す。すると思っても見なかった相手の気持ちに気づく。
これをしたいんだ。こんなことで困っていたんだ。
「これはあなたにとっては譲れないものなのね。」この一言で状況が変わる。

こうなると、お互いの譲れないものをどちらも守るのは、思っているより簡単だったりする。
だって、本当は親は子が大好きだし、
子だって親が大好き!力になりたいと思っているんだ!!

2人にとって一番いい解決策というのは、存在する。
おまけに一人で自分を守らなくても、相手も自分を十分に大切に思ってくれているとわかり、
結構ジーンとくる。うれしい。
こころの相互作用によって、子は驚くほど成長する。
子を成長させるのは、目に見える”信頼”と”尊重”。
第三法はスグレモノです!

家の壁づたいに隣の寝室まで響く目覚まし時計の音で、わたしは毎朝起こされる。
長男(高1)が、朝早めに起きて犬の散歩をしよう、としてセットしたものなのか、
二男(中2)が、クラブの朝練に行くための余裕のある朝を目指そう、としてセットしたものなのか、
2人の目覚まし時計の音を聞き分けていない私にはわからないけど、
どちらかのものであることは確か。
そしてどちらも全く意味がないことも確か。

いつも彼らは急いでいる。

徒歩通学の長男は、最近家を出る時間が遅くなった。
以前より10分は遅い。

リビングの壁時計で、まず学校の登校時刻に目をやる。そこから我が家から学校までの所要時間を差し引いた時刻に目をやる。分針がそれに迫っている。
「今、7時45分」
「大丈夫?」「急がないと遅刻よ」と言う代わりに、時刻のみを伝えることにしている。

時間がどんどん経っていく。今日はヤバそうだ。「車で送ってやろうか?」あせる息子の姿を目の前にして、もし夫がここにいたら絶対に言っているセリフ。どうしようかな?言ってあげようかな?

言わないことにする。

その代わり、彼が何か言ってきても、非難がましいことを何も言わないで、黙って車を出してあげよう。
声がうわずらないように、心の中で”にこにこYES”の準備。

「もう、あんたって子は~早くしないからよ!しょうがないわねえ~」
私は、このセリフは極力言わないことに決めている。だって、私は絶対に送っていくわけで、
そんな場合、”いやいやYES”より”にこにこYES”の方がはるかに子どもの自立に対して効果的なのだ。

”お母さんがいてくれて助かったな~”と、純粋に思ってもらうほうが、後々絶対に”得”
「子どもの問題」と思うなら、わたしが怒る必要はない。
甘やかさないけど、いざと言う時に頼める関係。
親業では、自立するために必要な「正当な依存」。自分から「送って」と頼む行為も大切なんだ。

「正当な依存」で、母親の車に乗った長男は、進路のことで母親から話を聞かされる。
文系か理系か、進む道を決める選択。先日の定期考査で、自分の高校生活最高点をとった物理を捨て、文系に進むという彼に、不安いっぱいの母親。

彼の説明ではその点数は山が当たった”マグレ”だったらしいが、ちょっとの勉強で点数が上がるのは基礎が入っているからで、授業が超つまらないのはわかるけど、せっかくの得意分野で勝負しないのはもったいない。
そんな話をすると、
「非難されてるみたい」と一言。
「・・・・・・」
コンサルタントはムツカシイ。彼を信じていればもちろん任せてあげられるのだろう。
最終的には、それでいいんだ。でも、言っておきたいことがあるような気がする。
言いたいことを言わずにいて後悔しないように、そして結局伝えたいことは何なのか?わたしは考える必要がある。
これは「私の問題」だ。

”人のコトバを鵜呑みにしてはいけない”と気づいたのは
もう相当に大人に近くなっていた頃だと思う。

それまでは、そんな事があるなんてわからなかったから、
いつもコトバどおりに解釈していた。

「アカンなあ」と言われれば、「ああ、アカンのや・・」
「出ていけ」と言われれば、「ああ、出て行かなくちゃ・・」

正確には、親のコトバは抽象的なコトバが多かったから、親の真意がわからなくていつも解釈に苦労していた、いう方が近いかもしれない。

「こんなんで、どうすんつもりやねん!」
「わかっとるんか!」

「????????」

ここで安易に返答してしまうと、怒りを増殖することになるということは、さすがにすぐに覚えたから、
「どうする?と言われても・・・・」
「それは、わかってるつもりだけど・・」
なんて、絶対に言ってはいけない。

「今のは何と言う意味ですか?」
「私の○○という行動について怒っているんですね。心配しているんですね。」
なんて、今だったら言えるかな?なんて思うけど(多分絶対に言わない)

だから「黙ってたらわからへんやろ!」と言われても、黙っているのが正解。
挑発に乗ってはいけない。子どもに発言権はないのだ。
唇をつぐんで時をまつ。

30分ほどそのままにしていれば、解放される。

その30分間、親からは、ぼーっとしていたように見えたかもしれないが、頭のなかは
「?????????」だらけ。

気の効かない娘と言われようが、何を考えているかわからないと言われようが、他に方法はない。

高校生になったある日突然、私の同級生が、自分自身のことをしっかり見据えて将来を語る姿に、驚いた。いつの間に、こんなに精神的に成長していんだろう・・。
視野が違う。住んでいる世界が違う。わたしはずっと家の中に住んでいる。親の目を気にし続けて、それだけで精一杯。自分の中に起こる大きな葛藤を処理するのに精一杯だったんだ。

同級生の後ろに見えた翼が眩しかった。でも自分の背中には翼がない。もぎ取られているみたい。悲しかった。どうしてこんな風になっちゃたんだろう・・・。

両親のコトバの影響をもろに受けて、息苦しかった家。
親はあり余る強い愛情と愛着を、そのまま子どもにぶつけていた。

親業を知り、両親が単にココロをコトバに変換する能力がないだけだと知った時、
今までの”自分のいたらなさ”から解放されたように感じ、救われた。

ココロのしくみ、怒りのしくみを知るだけでも、自分の中に何が起こっているのかがわかり、平静になれた。
自分で自分を責めることも減った。
更に、訓練をして、日常的にココロをコトバにそのまま変換できるようになると、相手の反応が明らかに変わった。自分に協力なんてみんなしてくれないと思っていた。私のことなんて誰も気にしていないと思っていた。ちょっと違うみたい。嬉しくなってきた。徐々に相手を信じられるようになった。

愛情が、暴力になって、愛する子どもを傷つけてしまわないように。

二男(中2)の期末考査が終わって、長男(高1)の期末考査は12月。
狭間の土日。我が家は平和だ。

夫は仕事。三男は土曜参観日、二男は部活。
めずらしく長男と二人になった昨日の朝。
ポツポツと出る長男の他愛のない話に、丁寧にコトバを重ねていくと、
日々の色んな話が出てくる。

勉強のこと。友達のこと。先生のこと。

やっぱり”聞く技術”を持っていてラッキー!聞くと子どもの世界がちょっとだけ見えたような気になり、安心できる。

子どもなりに色々と考えていることがわかる。

考えていることがとっても幼稚だと思うことがあっても、確実に成長していると感じることの方が多いし、
事実、長男はしっかりしている(と思う)。
何より、自分の人生を一歩ずつ積み重ねていってる、その事実が嬉しい。

充実した毎日を送っていて
”毎日が楽しい!”って、言える高校生って、今の日本で一体どれくらいいるんだろう。

母親が、話をする対象として存在していることも、嬉しいな。

そういえば、最近、帰宅時間が以前より早くなった。
ちゃんとわたしに考慮してくれている。

話さないと、わからない。
知らないと、理解できない。
愛情が、不安や恐れによって苦しみに変わらないように。
愛する我が子を苦しめてしまわないように。
わたしはこれからも、親業ゴードンメゾットを使っていきます。

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