連日報道されているいじめ問題は、
あまりにも各社マスコミが とりあげていて、
落ち着かない毎日を過ごす生徒も 可哀想だなと 思いながら、
関心を寄せずにいられない 当事者意識が いつまでも切り離せない。

これは、子どもを持つ母親なら皆、同じだろう。
”いじめ”という
それは、どこにでも 誰にでも 起こりえる、また、多かれ少なかれ多くの人が経験した問題に対する 恐怖心と古傷の疼きからくるものと 思われる。

もともと心配性なわたしは、子どもを育てる事になったときに、
「もし、この子が将来いじめられたらどうしよう・・?」
などと、おっぱいを飲ませながらも よく思ったものだ。

いじめは どこにでもある。

大人社会だってある。

どうも 人間のこころには、妬みや嫉み、異質なものを排除したい、優越感に浸りたい、自分の中の愚劣感を感じたくない、という気持ちがあって、
それはわたしにも、当然あって、
それを誰かに触発されると、何となく イライラしてしまう。

まあ、それだけでは”いじめ”にまで、ならないか・・・。

いじめる子は、いじめられている。
いじめられていない子は、いじめない。

わたしは、これは 本当にそう思う。
自尊感情の高い、自分で自分が好きな子は、決していじめない。

いじめられる

これは、目に見える暴力、圧力にとどまらず、その子の人格をないがしろにするような、一切の行為を示す。

親は 知らず知らずのうちに、
子どもを追い詰めることがある。

しかし、そんな親もまた、自分自身を真に受け入れられたと実感できた経験がないのではという想像は 容易にできる。
哀しくなってくる。
根深い問題。
是非、親業を勉強して欲しい。